Just like me, they long to be, close to you

皆さんご存知のとおり、東北地方を中心に大規模な地震があり、それに付随した大津波でたくさんの人が亡くなられました。犠牲者の皆さんのご冥福をお祈りします。

この地震が起こってから、おれはテレビに噛り付き、刻一刻と悪化していく原発のニュースに耳をそば立てながら、いつもとは違ったリズムにどこか違和感を覚えながらも、しかし一方でいつもとほとんど変わらない怠惰な生活をつづけていました。第一原発の一号機が水素爆発を起こしたとき、おれは車に乗りながらカーラジオを付けて、NHKの女性アナウンサーが色めき立ちながら、あの感情の閾値を必要性と時間の不可避性に後押しされた理不尽な運命の濁流が飛び越えていくときに顕現化する独特のビブラートに乗せて、あの原発でいま、起こってはいけないことが起ころうとしていることを伝えていたのを、いつもとは違ったリズムにどこか違和感を覚えながらも、しかし一方で、いつもとほとんど変わらない怠惰な生活のビットレートにデ・コードしながら聴いていました。それは奇妙な光景でした。それほどおれの住む島根県の田舎町では地震津波液状化現象で瓦解する石畳も空気中に放出される放射性物質も何もかも、先史時代の遠隔地で起こった出来事のように感じられるほどにすべてが正常で、そしてそこに住む人たちの表情も不気味なほどに静かで、その総てがことごとく異常であることをうわべではわかっていながら、その総ては正常な磁場の中に翻訳されていました。だからこの町では、総てが普通でした。

でもそれがとても身勝手な白昼夢であることを、みんな頭のどこかでわかっていました。でも同時に、それでも自分たちを誰もが断罪することができないという奇妙な矛盾が存在することに、そしてそこから逃れることができないということに気付いてもいました。カタストロフィーがすぐそこで起こっているのに、自分たちのコミュニティでは誰一人傷つかず、ラスタライズされたweb上のフラッシュビデオの中でしか感じられない、自分たちには歯がゆいまでに関係がない、何か行動を起こすにはあまりにも他人であり過ぎて具体的な何かを言ってしまうことすら陳腐なものに堕してしまうために憚られるときの、あのどうしようもないほどの孤独とあの悪意のない悪意のもたらす自己の決定にまつわる致命的な誤謬がこのあとの自分の生活を苛みつづけるという底なしの不安。その矛盾をはらんだ恐怖を抱くことで初めて、総ての日本人がカタストロフィーを共有しました。それが喪に服すための唯一で、そして不可避的な手段でした。それは同時に護法でした。それは自分の心臓の壁に穴を開けて血を逆流させることで作為的に行われた自発的な心不全でした。それは確かに護法でした。断罪であると同時に救済、免罪符であると同時に死刑宣告、緩やかな絶望と死の機械制御システムでした。
だからそれは、はっきり言って、とても奇妙な光景でした。総ての日本人は自らの使い古しの神経線維と脳幹と数十年前にアップデートされ損なったまま放置された穴だらけの記憶を埋葬するために、号砲の合図とともに自殺しました。それははっきり言って、とても愚かで、そして、あまりに身勝手な光景でした。


しかし、例外的にその大規模な、あまりに愚かで身勝手な精神的自傷行為から逃れた日本人もいました。それはカタストロフィーに際しながらも、普通の生活をつづけることを選んだ人々でした。子供たちの日々の生活を預かる労働者階級の父親たちや、ストリートの僻陬で野良犬のようにしぶとく生き抜いてきた底辺の若者たちは、つまり正確には悲劇へ自分を近付けることで逆に悲劇から遠ざかろうとする贅沢な徒労に資財や時間を費やす余裕がなかったのですが、だからこそ、そのときほんとうのことを見ていた人々でした。自分たちが守るべきものと自分たちが闘うべきものと、自分たちが見るべきものを、テクノロジーによって実装された精神的自殺という名の民主主義のバイアスから逃れてしっかりと認識できていた人々でした。そして要するにそれは、これは個人的な意見ではありますが、もっとも正しい選択でした。

彼らは自分たちがことごとく善人ではないことを知っていて、それゆえに現実に自分たちの家族を守るためにときには人も殺しかねない狡猾な人々でしたが、だからこそ彼らの選択はもっとも正しいものでした。その正しさは、彼らが第一義的に守るべきものを見極めていたというその一点において担保される程度の、言われてみればあっけない代物ではありましたが、その選択をするということには大きなリスクと少なくない勇気が必要だったことは、忘れっぽい民主主義のファンの人々のためにも今一度あらためて指摘しておく価値があります。

そう、なぜなら、これは個人的な意見ではありますが、精神的自殺という間違った判断を犯した人々は、ことごとく民主主義の熱狂的なファンであったのですから。だからここでその事実は絶対に指摘しておかねばなりません。絶対に復唱しておかねばなりません。できることなら彼らが自分たちの過誤に気付くまで口やかましく喧伝しておかねばなりません。彼らは自由のためには自由が必要で、自由を維持するために逆に規制が必要なのだ、と公言しようものなら徹底的なヘイト・スピーチをすることを厭わず、下手をしたら正義のために不正も犯しかねない、要するに民主主義の狂信的な殉教者であり、要するに、民主主義の従順なテロリストに他ならない人々であり、そして、自分たちは善人であってそれ以外はありえないと自認することにかけては最小限の不完全な証明しか持ち得ない人々でした。彼らは自分たちの来歴には汚れひとつなく、何らかの汚点があったとしてもそれは舶来のものであって自分の無謬性にはなんら問題はないと頑なに信奉する人々で、そして自分たちは常に善人であって間違うことはなく、仮に間違うことはあってもそれは修正可能な程度の小規模でこぎれいでかわいらしい勘違いにしかならないはずだという根拠のない信念に突き動かされた情熱的な人々でした。

彼らの根本的な間違いは、要するに彼らが自分たちを善人だと信じていたことですが、しかし、これを間違いだと声高に言うことは、正しい選択をしたと思われる少数派の人々にとっても難しいでしょう。別にそれ自体は悪いことではないし、それが履行されなかったからといって責められる道理はどこにもないし責める権利だって誰も持っていないからです。これはこの社会の設計者が、もしくは自然の摂理が、社会の下層レイヤーに仕込んだ社会学的スタビライザーです。この社会の設計者が、善へのインセンティヴを用意しつつ、それが達成されないことに対してペナルティを低めに設定したことで、逆に善へのインセンティヴが消尽することなく個々人の中で自律的に維持されることを企図して仕込んだ、トレードオフを侵さない範囲で特例的に宥恕されたお目こぼし、いわばモラトリアムです。

でもここで指摘しておくべきほんとうの間違いは、というより彼らの罪は、そのモラトリアムが失効してしまったと勘違いしたことに起因するものでした。
トレードオフは不文律だが、絶対ではないということ。そのお目こぼしは恒常的なものであって、地震が起こって津波に呑み込まれて放射性物質が撒き散らされて電気が止まって公共機関のアクセシビリティが低下したところで失われるものではないということ。というより、失ってはならないものであるということ。それは常に人が善たるために、善であるために、社会的に保障されている意図的なバグであるから、完全なシステムを達成するために担保された特例的な不完全性であるから、社会全体の善を達成するためにはそういうお目こぼしが必要であるから、だから、だから、その不完全性を失ってはならないということ。
でも、彼らは、その不完全性を失うべきだと考えました。

もっと言えば、彼らの間違いは、その不完全性を排除しなければ社会全体の善が低下してしまうと頑なに信じたことでした。彼らは彼らが信ずる民主主義の理念に従って、正義のためには不正も辞さない暴力的な平和主義に従って、今こそモラトリアムを失効させることでしか社会全体の善を担保できないと信じました。
でもそれは、また個人的な裁量を持ち出すようで恐縮ですが、決定的な間違いでした。ほんとうに、ひどい、あまりにひどい間違いでした。
なぜなら、それは歴史の中であらゆるファシズムが行ってきたことだからです。彼らが愛する民主主義を民主主義自らが破壊してしまうという恐るべき悲劇は、さまざまな為政者がいままでの歴史の中でさんざん繰り返してきたことだからです。例えばスターリニズムにまつわる幾つかの寓話から得られる最大の教訓は、ゼロ・トレランス(悪に対して、善の不履行に対して、容赦ないペナルティを課すことで善行を強制するシステム)が社会全体の善をむしろ減らしてしまうだろうということでした。別に何億年も前の共産主義国家の失敗例を引っ張り出してこなくとも、例えばトレーサビリティが裏返しのパノプティコンに過ぎないことにいまweb2.0時代の誰もが気付きだしているように、それが常に普遍的な悲劇であって歴史の教科書の囲み記事の数行の記述に遡る気の遠くなるような過去の話でも或いはインターネットもフラッシュメモリも影も形もなかったけれどベルリンの壁は確かに存在した頃の割と近い過去の話でもなく、常に今この時代の、そして或いは未来にも起こり得る悲劇であるということは、誰にも否定できないし、また否定したくとも可能性としては理解しておくべき価値のあるものです。少なくとも、自由や善というものが全方位のものではないということは知っておくべきだし、またそれがほとんど証明済みの命題であることも理解しておくべきです。


でもほんとうに知っておくべきことは、そういった民主主義の恐るべき陥穽の姿を民主主義の熱狂的なファンはほとんど常習的に、恐ろしいほど簡単に忘れしまうということです。
これは彼らが犯したもうひとつの間違いであったかもしれません。彼らは間違い、間違ったことを忘れ、また間違いました。


野放図にされたトレードオフが逆に健全なトレードオフを阻害してしまうということ。
社会的に整備された善のインセンティヴが過剰なペナルティを課すようになったら、逆に善のインセンティヴは減少してしまうということ。
社会全体の善を維持するためには、逆に善行を強制しないというモラトリアムが必要になるということ。

大なるものを補完するための、ある種類の不完全性。



だからもっとも正しい選択をした人々は、民主主義や自由や規制や差別や格差や搾取やフェアトレードについて考えることとは無縁の生活を送ってきた人々でした。彼らはそういった物事の当事者であり、それらの加害者というよりはどちらかといえば犠牲者でもありましたが、とにかくそういったことについて考えることをしたがらない人々でした。或いは、もっと単純には、彼らはそこまで民主主義を良いものとは考えていなかった人々でした。
だからこそ彼らは、「目の前の悲劇をあえて無視して実は悲劇と隣り合う」という重い選択をしました。彼らは「大なるものを補完するための、ある種類の不完全性」があることを言葉では理解していなくても、そういった不完全性が彼らの守りたいものを守るために仕方なく犯してしまう「善の不履行」を宥恕するであろうことは感覚的に理解していました。だから彼らはそういう選択をしました。彼らが見ていたのは、或いは、彼らにだけ見えていたのは、そういう世界でした。



しばらくして多くの自殺者がそのことに気付き、棺おけを蹴り開けてまたもとの生活に戻っていきました。悲劇を直視するために四六時中テレビの中の悲劇と顔を突き合わせて考えつづけねばならないと考えてきた人たちは、そうして自ら精神的に自殺した人々は、実はそれがこの残酷な現実という世界からのドロップ・アウトでしかないことに気付いて、もう一度この場所に戻ってきました。彼らは間違い、間違えたことを忘れ、また間違えました。そして今度は、そのことに気付きました。またそのことに気付いたことすら忘れてしまうかもしれませんが、まぁ、彼らは戻ってもう一度、この現実と闘う決意をしたのです。「地獄の底がいっぱいになったので、彼らは地上に溢れたのです」。



そう、それでもそれは、もっとも正しい選択でした。